川沿いの公園のベンチに座って、俺は空を見上げていた。
十一月の空は重く灰色で、吐く息が白い。まるで俺の心の色と同じようだった。
平日の午後三時。普通なら会社にいる時間だが、今日は有給を取った。
理由なんてない。ただ、会社の机に向かっていると息が詰まりそうになる。同僚たちの何気ない会話や、「奥さんは元気?」という気遣いの言葉。どれも胸に刺さる。
離婚届を出してから二週間。左手薬指の日焼け跡だけが、三年間の結婚生活の名残を物語っている。まだ誰にも報告していない。言葉にした瞬間、すべてが現実になってしまう気がした。報告しなければならないことは分かっているが、どう切り出せばいいのか分からずにいる。
「藤崎さんは真面目だから、きっと良いお父さんになりますよ」
昨日、後輩がそんなことをいった。彼に悪気はない。それが余計に辛かった。良いお父さんになれるのなら、まず良い夫になれていたはずだ。
ベンチの背もたれに頭を預ける。公園は静かで、時折犬の散歩をする人が通り過ぎるくらいだ。川のせせらぎが耳に心地よく響く。
こんな風に一人でいると、なぜか心が落ち着く。誰にも気を遣わなくていいし、無理に笑顔を作る必要もない。ただ、ここにいるだけでいい。
「もう恋愛なんてしなくていい」
声に出して呟いてみる。そう思えば楽になるはずなのに、胸の奥に残る空虚感は消えない。
美奈との結婚生活を思い返す。最初の頃は確かに愛し合っていた。でも、いつからだろう。会話が減り、笑顔も義務のようになり、触れ合うことさえ機械的になっていった。
「おかえりなさい」
「お疲れさま」
交わす言葉も決まりきっていて、心がこもっていなかった。俺たちは、ただ夫婦という形を演じていただけだった。
結局、愛って何だったんだろう。
そんなことを考えながら川面を眺めていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。この時間にここを通る人は珍しい。
顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる男性の姿が目に入った。背が高くて、黒いコートを着ている。年齢は俺より少し若く見えた。
最初は通り過ぎるものだと思っていた。でも、その人は俺の目の前で立ち止まった。
「あの……」
低くて落ち着いた声だった。俺は首を上げて、その人の顔を見る。整った顔立ちで、目元がどこか涼しげだった。でも、その表情にはどこか真剣さが感じられた。
「はい?」
俺は戸惑いながら返事をする。この人に心当たりはない。でも、なぜかじっと見つめられてしまう。
「君に会えて、本当にうれしい」
は?
一瞬、何をいわれたのか理解できなかった。見つけられて幸せ? 俺を?
「すみません、人違いでは……」
「違わない」
その人は即座に首を振った。声に迷いはない。
「君は藤崎悠真さんだろう?」
名前まで知っている。完全に俺のことを知っているということか。でも、記憶をたどっても思い出せない。
「はい、そうですが……どちらさまでしょうか」
「
名前を名乗られても、やはりピンとこない。彼は俺の困惑に気づいたのか、少し表情を和らげた。
「突然すみません。でも、どうしても君に会いたかったんです」
会いたくて? 俺に?
「あの、お会いしたことありましたっけ?」
「直接話したことはない。でも……」
蓮と名乗った男性は、隣のベンチスペースを指差した。
「座っても?」
まだ状況が飲み込めずにいたが、俺は頷いた。彼は俺との間に適度な距離を保ちながら、ベンチに腰を下ろした。
「君のことを探していた」
「探していた?」
「三年前、この公園で君を見かけた」
三年前? 俺はその頃のことを思い出そうとする。確かに、時々この公園には来ていた。仕事の合間に散歩したり、一人で考え事をしたりしていた。
「その時、君は一人でベンチに座って本を読んでいた。夕日が君の横顔を照らして……」
蓮の声が少し遠く感じられた。まるで思い出に浸っているかのようだった。
「君がページをめくる時、ふっと笑ったんだ。とても自然で、美しい笑顔だった」
美しい笑顔? 俺が?
「その時、君の笑顔に本当に救われたんだ」
「救われた?」
「詳しいことは今度話す。でも、あの時の君の笑顔を見て、俺は……」
蓮は言葉を詰まらせた。横顔を見ると、頬が少し赤くなっている。
「とにかく、どうしてももう一度君に会いたくて、ずっと探していた」
俺は混乱していた。三年前の記憶は曖昧だし、なぜ見知らぬ人がそこまでして俺を探すのか、理解できなかった。
「でも、どうして俺だと分かったんですか?」
「最近、出版社のビルの近くで偶然君を見かけた。君がそのビルから出てくるのを見て、確信した」
ストーカーじゃないだろうか。そんな不安がよぎる。でも、蓮の表情には誠実さがあった。嘘をついているようには見えなかった。
「あの、急にそんなことをいわれても困ります」
「分かっている。でも、いわずにはいられなかった」
蓮は俺の方を向いた。その瞳には真剣さと、どこか寂しげな色が宿っている。
「君が今どんな状況にあるのかは分からない。でも、もしよければ、時々こうして話をさせてもらえないだろうか」
時々話を?
「あの、俺は特に面白い人間じゃないですよ。それに……」
それに、今の俺は恋愛なんて考えられない。そういいかけて、口をつぐんだ。この人が恋愛感情を抱いているのかどうかも分からないのに、先走った考えかもしれない。
「面白いかどうかなんて関係ない」
蓮の声は静かだった。
「君と一緒にいると、心が少し軽くなる気がするんだ」
心が軽やか? 俺といて?
そんなことをいわれたのは初めてだった。美奈とは「居心地がいい」とか「安心する」といった言葉を交わしたことはあったが、「軽やかになる」なんて言われたことはなかった。
「俺、最近離婚したばかりで」
なぜかそんなことを口にしてしまっていた。言う必要もないのに。
蓮の表情が少し変わった。驚いているというより、心配しているような顔だった。
「辛い時期なんですね」
「はい。だから、人と関わるのも、今は少し……」
「無理をする必要はない」
蓮は穏やかにいった。
「ただ、もし気が向いた時があったら、ここにいます。同じ時間に」
俺は彼を見つめた。この人は何を考えているんだろう。見返りを求めているようには見えない。ただ、純粋に俺と時間を過ごしたいと思っているように聞こえる。
「なぜそこまで?」
「あの時、俺は……とても辛い時期で」
蓮の声が少し震えた。
「でも、君の笑顔を見て、世界にはまだ美しいものがあると感じられた。だから今度は俺が、その笑顔を守りたいんだ」守りたい?
その言葉が胸に響いた。誰かに守ってもらいたいなんて思ったことはなかった。でも、今は一人で立っているだけで精一杯だ。
「でも、俺は今、笑えているかどうか分からない」
「それでもいい」
蓮は即答した。
「君がいてくれるだけで、俺は幸せだ」
その言葉を口にした時、蓮は無意識のうちに俺との距離を縮めていた。膝と膝の間隔が、いつの間にか手のひらひとつ分ほどになっていた。
俺の心臓が急に早く打ち始めた。
なぜだろう。美奈とはもっと近い距離にいたはずなのに、こんなふうに動揺したことはなかった。
「分からない」
俺は正直にいった。
「あなたのことも、なぜそんなことをいうのかも。でも……」
でも、不快ではなかった。むしろ、久しぶりに誰かに必要とされていると感じた。
「でも?」
「また会うかもしれません。気が向いたら」
蓮の顔がパッと明るくなった。その瞬間、さっきまでのクールな表情が一気に崩れ、頬が真っ赤に染まった。
「あ、ありがとう」
先ほどまでの落ち着いた声とは打って変わって、少し上ずった声だった。まるで中学生みたいだった。
彼は立ち上がった。
「それじゃあ、また」
「あの」
俺は慌てて声をかけた。
「お仕事は? 平日の昼間にこんなところにいて大丈夫なんですか?」
「シフト制だから。今日は夜勤だ」
警備関係の仕事なのかもしれない。それなら平日の昼間に時間があることも納得できる。
「お疲れさまです」
「君こそ、今日は会社は?」
「有給です」
「そうか。ゆっくり休んでください」
蓮は軽く会釈をして歩き去った。蓮が立ち上がった時、かすかに石鹸の香りが漂った。清潔感のある、やさしい匂いだった。
なぜかその香りが記憶に刻まれた。
川沿いの公園のベンチに座って、俺は空を見上げていた。 十一月の空は重く灰色で、吐く息が白い。まるで俺の心の色と同じようだった。 平日の午後三時。普通なら会社にいる時間だが、今日は有給を取った。 理由なんてない。ただ、会社の机に向かっていると息が詰まりそうになる。同僚たちの何気ない会話や、「奥さんは元気?」という気遣いの言葉。どれも胸に刺さる。 離婚届を出してから二週間。左手薬指の日焼け跡だけが、三年間の結婚生活の名残を物語っている。まだ誰にも報告していない。言葉にした瞬間、すべてが現実になってしまう気がした。報告しなければならないことは分かっているが、どう切り出せばいいのか分からずにいる。「藤崎さんは真面目だから、きっと良いお父さんになりますよ」 昨日、後輩がそんなことをいった。彼に悪気はない。それが余計に辛かった。良いお父さんになれるのなら、まず良い夫になれていたはずだ。 ベンチの背もたれに頭を預ける。公園は静かで、時折犬の散歩をする人が通り過ぎるくらいだ。川のせせらぎが耳に心地よく響く。 こんな風に一人でいると、なぜか心が落ち着く。誰にも気を遣わなくていいし、無理に笑顔を作る必要もない。ただ、ここにいるだけでいい。「もう恋愛なんてしなくていい」 声に出して呟いてみる。そう思えば楽になるはずなのに、胸の奥に残る空虚感は消えない。 美奈との結婚生活を思い返す。最初の頃は確かに愛し合っていた。でも、いつからだろう。会話が減り、笑顔も義務のようになり、触れ合うことさえ機械的になっていった。「おかえりなさい」「お疲れさま」 交わす言葉も決まりきっていて、心がこもっていなかった。俺たちは、ただ夫婦という形を演じていただけだった。 結局、愛って何だったんだろう。 そんなことを考えながら川面を眺めていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。この時間にここを通る人は珍しい。 顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる男性の姿が目に入った。背が高くて、黒いコートを着ている。年齢は俺より少し若く見えた。 最初は通り過ぎるものだと思っていた。でも、その人は俺の目の前で立ち止まった。「あの……」 低くて落ち着いた声だった。俺は首を上げて、その人の顔を見る。整った顔立ちで、目元がどこか涼しげだった。でも、その表情にはどこか真剣さが感じられた。「はい
「もう二度と、誰かを愛することはない」 藤崎悠真は離婚届に最後の印を押しながら、心の奥底でそう誓った。三十二年間で初めて、本気で思った。 市役所の蛍光灯が妙に白々しく感じられる。窓口の職員が機械的な笑顔を浮かべて書類を受け取ったその瞬間、三年間の結婚生活が音もなく終わった。「お疲れさまでした」 お疲れさま、か。確かに疲れた。心の底から、骨の髄まで疲れ切っている。 外に出ると、十一月の風が容赦なく頬を刺した。空は鉛色に沈み、今にも泣き出しそうに見える。まるで俺の心を映しているようだった。 電車の中で、ふと薬指を見下ろす。結婚指輪があった場所には、白い痕だけが残っている。三年間そこにあったものが消えると、こんなにも指が軽く感じるものなのか。 ——美奈との最後の会話が、耳の奥で反響する。「悠真さんって、いつも笑ってるけど、本当は何を考えてるのか分からない」 間違ってなんかいなかった。俺は確かに笑っていた。でも、心から笑えていたのは一体いつが最後だっただろう。 自宅マンションの玄関を開けると、靴箱には俺の革靴だけがぽつんと並んでいる。美奈のピンクのパンプスは、もうない。「ただいま」 誰もいない部屋に向かって呟いた声が、虚しく響いて消えた。 リビングに足を向けると、ダイニングテーブルの上には、朝のコーヒーカップが置きっぱなしになっている。中に半分残った茶色い液体は、もうとっくに冷め切っていた。 シンクに流すと、陶器の音だけが妙に大きく響く。 2LDKのこの部屋は、二人で暮らすにはちょうど良い広さだった。しかし今では、広すぎて、静かすぎて、寂しさだけが際立つ。 ソファに身を沈めた瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。 美奈は悪い女じゃなかった。俺だって、彼女を傷つけるつもりはなかった。ただ——心が通い合わなかった。それだけだ。 形だけの夫婦を演じることに、二人とも疲れてしまった。「もう一度やり直さないか」 最後に、俺はそう言った。しかし美奈は静かに首を横に振った。「悠真さん、あなたは優しすぎる。でも、優しさだけじゃ結婚生活は続けられない」 その通りだった。俺たちには情熱も、愛もなかった。あったのは、お互いを思いやる優しさと、世間体を気にする弱さだけだった。 結婚する前は、それで十分だと思っていた。穏やかで