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第二章 突然の訪問者

Auteur: 海野雫
last update Date de publication: 2025-09-05 15:03:46

 川沿いの公園のベンチに座って、俺は空を見上げていた。

 十一月の空は重く灰色で、吐く息が白い。まるで俺の心の色と同じようだった。

 平日の午後三時。普通なら会社にいる時間だが、今日は有給を取った。

 理由なんてない。ただ、会社の机に向かっていると息が詰まりそうになる。同僚たちの何気ない会話や、「奥さんは元気?」という気遣いの言葉。どれも胸に刺さる。

 離婚届を出してから二週間。左手薬指の日焼け跡だけが、三年間の結婚生活の名残を物語っている。まだ誰にも報告していない。言葉にした瞬間、すべてが現実になってしまう気がした。報告しなければならないことは分かっているが、どう切り出せばいいのか分からずにいる。

「藤崎さんは真面目だから、きっと良いお父さんになりますよ」

 昨日、後輩がそんなことをいった。彼に悪気はない。それが余計に辛かった。良いお父さんになれるのなら、まず良い夫になれていたはずだ。

 ベンチの背もたれに頭を預ける。公園は静かで、時折犬の散歩をする人が通り過ぎるくらいだ。川のせせらぎが耳に心地よく響く。

 こんな風に一人でいると、なぜか心が落ち着く。誰にも気を遣わなくていいし、無理に笑顔を作る必要もない。ただ、ここにいるだけでいい。

「もう恋愛なんてしなくていい」

 声に出して呟いてみる。そう思えば楽になるはずなのに、胸の奥に残る空虚感は消えない。

 美奈との結婚生活を思い返す。最初の頃は確かに愛し合っていた。でも、いつからだろう。会話が減り、笑顔も義務のようになり、触れ合うことさえ機械的になっていった。

「おかえりなさい」

「お疲れさま」

 交わす言葉も決まりきっていて、心がこもっていなかった。俺たちは、ただ夫婦という形を演じていただけだった。

 結局、愛って何だったんだろう。

 そんなことを考えながら川面を眺めていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。この時間にここを通る人は珍しい。

 顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる男性の姿が目に入った。背が高くて、黒いコートを着ている。年齢は俺より少し若く見えた。

 最初は通り過ぎるものだと思っていた。でも、その人は俺の目の前で立ち止まった。

「あの……」

 低くて落ち着いた声だった。俺は首を上げて、その人の顔を見る。整った顔立ちで、目元がどこか涼しげだった。でも、その表情にはどこか真剣さが感じられた。

「はい?」

 俺は戸惑いながら返事をする。この人に心当たりはない。でも、なぜかじっと見つめられてしまう。

「君に会えて、本当にうれしい」

 は?

 一瞬、何をいわれたのか理解できなかった。見つけられて幸せ? 俺を?

「すみません、人違いでは……」

「違わない」

 その人は即座に首を振った。声に迷いはない。

「君は藤崎悠真さんだろう?」

 名前まで知っている。完全に俺のことを知っているということか。でも、記憶をたどっても思い出せない。

「はい、そうですが……どちらさまでしょうか」

橘蓮たちばなれん

 名前を名乗られても、やはりピンとこない。彼は俺の困惑に気づいたのか、少し表情を和らげた。

「突然すみません。でも、どうしても君に会いたかったんです」

 会いたくて? 俺に?

「あの、お会いしたことありましたっけ?」

「直接話したことはない。でも……」

 蓮と名乗った男性は、隣のベンチスペースを指差した。

「座っても?」

 まだ状況が飲み込めずにいたが、俺は頷いた。彼は俺との間に適度な距離を保ちながら、ベンチに腰を下ろした。

「君のことを探していた」

「探していた?」

「三年前、この公園で君を見かけた」

 三年前? 俺はその頃のことを思い出そうとする。確かに、時々この公園には来ていた。仕事の合間に散歩したり、一人で考え事をしたりしていた。

「その時、君は一人でベンチに座って本を読んでいた。夕日が君の横顔を照らして……」

 蓮の声が少し遠く感じられた。まるで思い出に浸っているかのようだった。

「君がページをめくる時、ふっと笑ったんだ。とても自然で、美しい笑顔だった」

 美しい笑顔? 俺が?

「その時、君の笑顔に本当に救われたんだ」

「救われた?」

「詳しいことは今度話す。でも、あの時の君の笑顔を見て、俺は……」

 蓮は言葉を詰まらせた。横顔を見ると、頬が少し赤くなっている。

「とにかく、どうしてももう一度君に会いたくて、ずっと探していた」

 俺は混乱していた。三年前の記憶は曖昧だし、なぜ見知らぬ人がそこまでして俺を探すのか、理解できなかった。

「でも、どうして俺だと分かったんですか?」

「最近、出版社のビルの近くで偶然君を見かけた。君がそのビルから出てくるのを見て、確信した」

 ストーカーじゃないだろうか。そんな不安がよぎる。でも、蓮の表情には誠実さがあった。嘘をついているようには見えなかった。

「あの、急にそんなことをいわれても困ります」

「分かっている。でも、いわずにはいられなかった」

 蓮は俺の方を向いた。その瞳には真剣さと、どこか寂しげな色が宿っている。

「君が今どんな状況にあるのかは分からない。でも、もしよければ、時々こうして話をさせてもらえないだろうか」

 時々話を?

「あの、俺は特に面白い人間じゃないですよ。それに……」

 それに、今の俺は恋愛なんて考えられない。そういいかけて、口をつぐんだ。この人が恋愛感情を抱いているのかどうかも分からないのに、先走った考えかもしれない。

「面白いかどうかなんて関係ない」

 蓮の声は静かだった。

「君と一緒にいると、心が少し軽くなる気がするんだ」

 心が軽やか? 俺といて?

 そんなことをいわれたのは初めてだった。美奈とは「居心地がいい」とか「安心する」といった言葉を交わしたことはあったが、「軽やかになる」なんて言われたことはなかった。

「俺、最近離婚したばかりで」

 なぜかそんなことを口にしてしまっていた。言う必要もないのに。

 蓮の表情が少し変わった。驚いているというより、心配しているような顔だった。

「辛い時期なんですね」

「はい。だから、人と関わるのも、今は少し……」

「無理をする必要はない」

 蓮は穏やかにいった。

「ただ、もし気が向いた時があったら、ここにいます。同じ時間に」

 俺は彼を見つめた。この人は何を考えているんだろう。見返りを求めているようには見えない。ただ、純粋に俺と時間を過ごしたいと思っているように聞こえる。

「なぜそこまで?」

「あの時、俺は……とても辛い時期で」

 蓮の声が少し震えた。

「でも、君の笑顔を見て、世界にはまだ美しいものがあると感じられた。だから今度は俺が、その笑顔を守りたいんだ」

 守りたい?

 その言葉が胸に響いた。誰かに守ってもらいたいなんて思ったことはなかった。でも、今は一人で立っているだけで精一杯だ。

「でも、俺は今、笑えているかどうか分からない」

「それでもいい」

 蓮は即答した。

「君がいてくれるだけで、俺は幸せだ」

 その言葉を口にした時、蓮は無意識のうちに俺との距離を縮めていた。膝と膝の間隔が、いつの間にか手のひらひとつ分ほどになっていた。

 俺の心臓が急に早く打ち始めた。

 なぜだろう。美奈とはもっと近い距離にいたはずなのに、こんなふうに動揺したことはなかった。

「分からない」

 俺は正直にいった。

「あなたのことも、なぜそんなことをいうのかも。でも……」

 でも、不快ではなかった。むしろ、久しぶりに誰かに必要とされていると感じた。

「でも?」

「また会うかもしれません。気が向いたら」

 蓮の顔がパッと明るくなった。その瞬間、さっきまでのクールな表情が一気に崩れ、頬が真っ赤に染まった。

「あ、ありがとう」

 先ほどまでの落ち着いた声とは打って変わって、少し上ずった声だった。まるで中学生みたいだった。

 彼は立ち上がった。

「それじゃあ、また」

「あの」

 俺は慌てて声をかけた。

「お仕事は? 平日の昼間にこんなところにいて大丈夫なんですか?」

「シフト制だから。今日は夜勤だ」

 警備関係の仕事なのかもしれない。それなら平日の昼間に時間があることも納得できる。

「お疲れさまです」

「君こそ、今日は会社は?」

「有給です」

「そうか。ゆっくり休んでください」

 蓮は軽く会釈をして歩き去った。蓮が立ち上がった時、かすかに石鹸の香りが漂った。清潔感のある、やさしい匂いだった。

 なぜかその香りが記憶に刻まれた。

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